総合病院設立の計画

森国久は1964(昭和39)年7月13日竣工するに到った上天草病院の建設構想を、1950年代の終わり頃から立てていました。彼の早すぎた死によって、海辺に立つ純白の総合病院の勇姿を目の当たりにする願いは、残念ながら、かなえられませんでしたが、今日でもなお、附属の看護学校を擁して、上天草地方の地域医療にはなくてはならない存在です。

現在上天草地域の医療を力強く支えている上天草総合病院は、1959(昭和34)年、国民健康保険が開始されるのを見越して、建設計画の種が初めて播かれました。町の公民館報『龍ヶ岳』の1959(昭和34)年新年号には、「龍ヶ岳の一〇年計画」と題して、龍ヶ岳町の総合開発計画が図示され、そのなかに現在地と同じ場所に総合病院のイラストが記載されています。

その後計画準備は着々とすすめられました。1962(昭和37)年3月2日付の『みくに』新聞の記事で「天草郡龍ヶ岳町では最近ますます入院患者が増える傾向にあるので医療機関の設立を要望していたが、このほど総工費5,000万円の町立総合病院を建てることになった」と報じています。天草中からこの計画が注目されていたことがうかがえます。

離島民にとって医療機関の整備は切実なものでした。当時離島には医師も不足し、交通手段が船にたよるしかなく、しけになると船も出せず、救えるはずの命をどれ程失っていたかしれません。国久は、離島の不便さ、格差を訴え、離島民が本島並みの医療を受けられることを願っていました。そこで総合病院をいち早く計画し、建設の時機を見計らっていたのです。

国久の没後半年後、すなわち最初の種まきから3年と10ヶ月後の、1962(昭和37)年10月、着工が正式に決定され、ついに1964(昭和39)年7月13日竣工しました。

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