森國久の日記について
<解説>
残された日記はわずか
■國久は筆まめであったので、多数の日記が残されていていいはずですが、転居が多かったせいか、ほとんどのものが散逸しています。そのうち1955(昭和30)年の日記だけがかろうじて残っていますので、その内容を何回かに分けて順次紹介します。
胃潰瘍と森国久
■彼は前年の1954(昭和29)年12月、42歳のときに胃潰瘍の手術を受けました。それはちょうど天草架橋期成会発足の準備がすすめられていた頃です。その傷が癒えやらない年明けの正月は、かれにとって気分の冴えない正月でした。豪胆に映る性格の國久が胃潰瘍を患うとは意外ですが、人情の機微に敏感な面をかれは持ち合わせていたと思われます。
森国久の思索と病気
■一つの物事を、相手の視点に立っても眺めてみるという姿勢は、相手に同調したり、暗黙の同意を与えるということとは別の態度ですが、それは時間をかけて物事を掘り下げて考える姿勢であったと表現することができます。それだけに、公の場では見せない彼の感情は、心の内部で鬱屈し、それが身体の変調をきたすという面もあったのではないかと私たちは推察するのです。
大所高所
■大所高所に立てば、人々が争いそのものを自己目的化するような争い(いわゆる「ケンカ好き」、おのれの個別利害をはからんとする烏合の争い、「やられたらやり返せ」流の争い(これも「ケンカ好き」)は、國久から見れば、あまりにも視野のせまい生き方に見えました。したがってそのような争いの激しさを日記の中で慨嘆しています。
■たしかに彼もかつて旧制天草中学校時代に、下級生をかばおうとして他校の生徒と乱闘を演じたことがあります。しかしそれも好き好んで乱闘したわけではありません。それはともかく、あの頃の森國久から考えれば、森國久は争いのための争いは好まない、どっしりと肝の据わった人間に成長していたのです。
日記に見える勤勉と喜怒哀楽
■日記には多忙なスケジュールが走り書きされ、それを私たちが辿ってみると、いかに森國久が周囲の人びとや状況に絶えず目配り気配りをしつつ、日々の職務に精励していたかがよくわかります。日記を読むと、職務における彼の精励ぶりが手にとるようにわかるのですが、精励ぶりがわかるだけでなく、日々の喜怒哀楽が率直に表現され、周囲の人についての人物評もあって、たった数ヶ月だけの日記であっても、日記は彼の人間性を実によく表現していると思われます。
日記の掲載に当たってのお断り
■以下、日を追ってその内容を紹介しますが、日記の各ページには日付が記されている場合とそうでない場合がある。興味深いことに日付が記されている場合であっても、肝腎の中身が抜けている場合もあります。読者としてはこの意味するところは何かと考えたくなりますが、本人がいないので推測するしかありません。
■表記上のことを数点、予め断っておきます。國久独特の筆跡で読みづらい箇所が往々にしてあり、読めない箇所は読めないままにしておくよりほかありません。旧仮名遣いは新仮名遣いにあらためて表現しました。文脈上語句を補った方が理解の助けになると思われる個所には、カッコ書きで語句を補いました。その他、必要に応じて、句読点、脱落している記号などを補いました。
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