離島振興法70周年記念式典開かる

11月1日、東京都内で全国離島振興協議会主催(後援 – 国土交通省他)により「離島振興法70周年記念式典」が開催されました。この式典に当顕彰会より副会長の田口 宏明及び理事の森純子が出席しました。この式典に於いて両名が講演を行いました。両講演の要約を掲載します。

郷土100年の計を推進する意気込みで

講演要約
 熊本県のかつての離島、樋島の若い村長であった森國久が、難産であった離島振興法の成立に深く関わったのは1953年の夏のことであった。彼は法案の国会承認直後に全国離島振興協議会の副会長に選任され、全国の同志とともに以後10年間、全国の離島振興運動に専心努力し、また内閣総理大臣の諮問機関であった離島振興対策審議会委員として8年間にわたる重要な足跡を残した。
他方において彼は、天草諸島の全24万離島住民を巻き込んだ、一挙に5本の橋を架ける構想を持つ天草架橋運動のリーダーとして、中央省庁および日本道路公団との交渉に8年の歳月を費やし、建設着工の道筋をつけた。

 今年の7月に離島振興法は成立70周年の節目を迎えたが、70年前の初代振興法の成立を、森國久久はとても喜び、かっ国境と園を守ることのできる島を産み出していく覚悟にかかっていると思われる。「離島振興法なかりせば」と口癖のように語り、この法に感謝の念を持ち続けた。と同時に他方では、法に基づく離島の地域指定に甘んじ、受け身の気持ちがもし離島住民のあいだに広がるならば、それは郷土発展100年の計を毒する恐れがある、という厳しい警告も発していた。

 知恵を絞り互いに手を取り合い、自らの郷土を自ら振興させるたくましい意欲が離島住民にあってこそ、振興予算は離島住民の地力を養い、持続可能な郷土を発展させる。そのときはじめて離島振興法は真の意味において命を吹き込まれた活きた法となる。森國久がそのように確信していたことを、この節目の年に改めて思い起こしたい。
 今後10年間の延長が認められたこの度の改正離島振興法の実質化はいかにして図れるか。それは国の機関の支援を受けつつ離島住民自らが創意工夫をこらし、忍耐と努力によって郷土100年の計を推進する意気込みで、次世代が生活可能な島、暮らして楽しい島、かつ国境と国を守ることのできる島を産み出していく覚悟にかかっていると思われる。
             森国久顕彰会 副会長  田口 宏昭

草の根民主主義を日々実践

講演要約

今から72年前に、若者たちに請われて熊本県のー離島[樋島。今の上天草市龍ヶ岳町樋島]の村長となった森國久は、よく歩く村長であった。
 歩くことによって、村長として解決しなければならない課題を次々と見つけ出し、熟慮、した上で計画を立てると周囲を説得して直ちに実行に移した。
 また彼は自宅と役場との往復で毎日同じ道を歩かなかった。それは日々通る道順を変えることによって、できる限り多くの村人と出遇い、対話するためであった。その出遇いは日時を約束して会う「出会しリではなく、偶然の出遇いであるから村人のありのままに接することができる。だからこそ一層の価値がある。
 森國久はそのような出遇いを通して、住民の日々の暮らしぶりを知り、その率直で飾らない言葉、その言葉に込められた想い、悩み、訴えに耳を傾けた。そして道理に適う限り、それを行政施策に反映することに最大限の努力を惜しまなかった。住民との出遇いをきっかけに生まれる対話から新しい課題が発見され、出遇いの時間が空しく過ぎ去ることはなかった。反対に、それどころか、それは豊かな実りをもたらした。

この「歩く」と「出遇うJという姿勢を、48歳で早すぎる生涯を閉じることになる10年間の政治家人生で彼は貫いた。それは住民に密着し、住民と共に地域のよりよい生活、安全と安心の生活を築いていく人間愛と「草の根民主主義Jを日々実践するための揺るぎない基盤で、あったように思われる。
このような森國久の精神を受け継ぐために発足した森国久顕彰会は、地元小学校の先生方と共に森園久から知恵を学び、互いに協力して天草の島の小学生たちが郷土愛を育み、島で生きる希望を見いだし、島の将来の人材になってくれる取り組みをはじめた。     

          森国久顕彰会 理事 森 純子

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離島振興に貢献

安田公寛・元天草市の市長は、離島振興に貢献したと全国離島振興協議会長賞に選ばれました。

   安田公寛氏(元天草市 市長)

<会場にて>
左より 田口副会長、森理事、安田元天草市市長、森國久の遺族の方です。

            < 講演会場 >

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