森國久の日記
■森國久の日記はたくさん残されていません。ただ一冊あるだけです。その一冊も実際は毎年書いていたのかもしれませんが、ともかく残っていないのです。何度も転居するうちに散逸してしまった可能性が大きいのですが、日記を書く暇がないほど忙しかったからかもしれません。実際、残されている日記の頁をめくっていくと、歯が欠けたように文字が埋まっていないことに気がつきます。これは並外れて彼が多忙であったことを物語っていると思いたくもなります。
特に最後の10年間の日記がたった一冊残されているだけなのはとても残念なことです。こういう状況なのですが、わずかな頁数だけでもここで紹介していきたいと考えます。
昭和30年(1955)1月1日の日記
「正月といっても取り立ててなすことがないこの様、誠に寂しい限りではある。学校の、年の初めの式に参列する(予定である)。村長挨拶で、「一年の計は食を植えるにあり、十年の計は木を植えるにあり、百年の計は人を教えるにあり。教育・文化の村の建設を目標に」と、簡単に挨拶する。貧血のためか、やっとの思いであった。式後、簡単に乾杯する。健康に自信を持ちたい、健康を回復したいこと切である。」 |
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■この日記が書かれたのは昭和30年の正月だから、初代竜ヶ岳村村長に就任してからまだ半年足らずの月日が経過したばかりです。合併後の竜ヶ岳村の首長としてやらなければならないことは山ほどありました。三村が合併したのですから、住民相互の融和をいかに図るかという首長としての仕事も、通常の職務の上にかぶさってきていたことは、容易に察しがつくところです。
■そのような時期に新しく誕生した村の村長として初めて正月を迎えたのです。前年の昭和29年12月に胃潰瘍の手術を受けています。11月から12月にかけて國久の公務は目白押しの状態でした。激務のためかもしれない胃潰瘍の傷跡がまだ癒えないうちに、「貧血のためか、やっとの思いであった。」という文面から明らかなように、正月元旦からもう仕事をしているのです。病の床であれこれと考えめぐらして準備した年頭のあいさつをやっとの思いで済ませた國久のつらさがひしひしと伝わってくる日記の断章です。
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