森国久の福祉政治の背景

なぜ、森国久は法の隙間に気付き、それを埋めることが可能だったのでしょうか。
歩いて見る国久は、「底辺の暮らし」を見つめ「脱落者を忘れてはならない」とすることを自らの政治の基本線にしていました。そうであるためには、先ず自ら町民の暮らしぶりを自らの眼で知ることが必要でした。彼は、役場への行き帰りは、出来る限り違うコースを歩くことに努め、朝晩必ず町民の家を1軒は訪ねてその暮らしぶりを見ることに心がけました。

対話とコミュニケーション また当時は全国的に見ても珍しい「移動役場」を集落単位で定期的に開き、町(村)民の生の声に耳を傾け、生の情報収集に自らの手で行いました。このような実践が福祉政治の基礎にありましたので、政策を進める上で町議会の理解を得ることも容易であったと思われます。

妻の助力 当時も今も同じですが、母親が一人で子育てすることは困難でした。婦人会や「未亡人会」の活動に熱心だった妻政子から母子家庭の窮状や障害児を抱える家庭のことをつぶさに聴いていました。そのような情報が森国久に的確に伝えられ、大胆にしてかゆいところに手が届くような福祉政策の母子福祉年金条例の立案が可能になりました。

戦争体験とヒューマニズム 森国久は中国南支の広東で従軍していたとき、戦争孤児を保護した経験があります[関連資料:憎しみと愛のカクテル]。また警察官時代には、寒さのあまりぶるぶる震えている連行中の殺人事件容疑者を、見かねて真冬の温泉に入浴させてやった経験があります。さらに取調中の容疑者たちに出盛りの温州ミカンの差し入れをすることを常としていました。そのほかにもヒューマニズムを伝えるエピソードがいくつもありますが、国久の「戦没者遺族年金条例」においても国久のヒューマニズムが貫かれています。戦争犠牲者は皆同じである、そこに不当な差別があってはならないとして軍属、准軍属にも年金の支給範囲を拡げました。

不備ならば法は自ら創り出す その年この画期的な施策で、母子世帯は約30世帯、児童世帯約20世帯、戦没者遺族約11世帯に光があたったのです。
国久の机の横にはいつも六法全書が置いてありました。それは使い古されてボロボロになっていました。国の法律が不平等で不備と思えば、国の施策を待つのではなく自らが法律を創り出し議会で話し合い施行する、この姿勢こそが、福祉の分野以外の地域振興、天草架橋、離島振興を可能としたものでもあります。
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