[ 初代龍ヶ岳村長時代(推定)の森国久 ]

森国久とは?

はじめに

このホームページは、大正時代と昭和時代を生き抜いた森国久という一人の地方政治家を紹介するために公開しています。森国久は1912(明治45)年7月10日、熊本県天草郡樋島村に生まれ、1961(昭和36)年6月26日、自らの誕生日を目前にして急死し、48歳でその生涯を閉じました。

1.多彩な職歴
彼は旧制中学校を18歳で卒業したのち、新聞記者、軍隊(兵役)、警察官、軍隊(中国南支の広東勤務)、警察官(復職)、同退職(公職追放措置による)、民間法人の役員というように多彩な職歴を重ねました。

2.村長選に出馬―若者の勝利
1947(昭和21)年5月に34歳で熊本県警を依願免退職した森国久は、その後、八代市内で民間法人の役員を勤め、生活も何とか軌道にのりはじめていました。ところが、それからちょうど6年後の1951(昭和26)年5月のこと、彼にとって人生の一大転機が訪れます。誰も予想できなかったことです。

故郷の樋島村の青年団の若者たちが船に乗り、はるばる不知火海を渡って突然彼に会いに来ました。不知火海といえば、当時、漁師たちが「打たせ船」という大きな白い帆を風になびかせる帆船を操舵して魚をとっていた海です。「ぜひ村のために村長選に出馬して欲しい」と彼に頼むためでした。一行は「適任者はこの人しかいない」と思い詰めていました。その年の5月、樋島村の実家にたまたま帰省した森国久を彼ら・彼女らはちらっと見ただけであったのに、そう思い込んでいたのです。その頃、村では村長選挙で選挙違反が続出し、出直し選挙に向けて準備がすすめられていました。そのとき彼は38歳でした。青年団の一行が彼に的を絞った詳細については別の機会に書くことにします。

さて、あまりにも唐突な要請でもあり、また国久自身も民間団体の役員で平穏な人生を送ろうとしていた時期でしたので、最初の面会では素っ気なく断った森国久でした。が、あきらめきれない若者たちは間もなく彼をふたたび訪ねてきました。若者たちは一生懸命に選挙の現状、村の現状を訴えました。真剣そのものでした。そのあまりの熱意・真剣さに感じるところがあった彼は、その願いに応えてついにその場で出馬を決意しました。地縁、血縁、金がらみを排し、村の未来を熱く訴える清潔な選挙運動はおおくの住民の支持を得た結果、彼は見事当選しました。1951(昭和26)年、彼が38歳のときでした。

3.村長の改革的手腕
そこから彼の10年にわたる異色の政治家人生は始まりました。
村長に就任したとき村の財政は赤字だらけでした。職員に給料を払えないくらいの状況でしたので、職員と住民に村の今後の取り組みを話し、職員の戸別訪問によって住民を説得し、税を納めてもらうようにしました。

それでも焼け石に水の赤字財政のなかで十分な予算を組むことができなかったので、村人が畑の収穫物をリヤカーで楽に運搬できるように、村内のぬかるみの細道を若者たちの手を借りながら次々と舗装しました。安心して飲み水が飲めるように村人の手を借りて水源地の整備をはかりました。また行政と住民のコミュニケーションを図るために村の広報紙を手作りで発行し始めます。

このように、皆があきらめて当たり前だと思い込んでいる生活上の不便を次々と便利に変えていきました。それは地方名士の小さな名誉のための政治ではなく、住民の「福祉」をいかにして増進するのかという視点に基づく、真の意味での民主政治の基本に則った政治がやっと始まったことを意味していました。

4.三村合併で龍ヶ岳村誕生
森国久は、根っからの町村合併論者でした。小さな村単位の政治では産業振興を図る上でも、住民福祉の増進を図る上でも限界があると感じはじめます。やがてそれは「歩く政治家」としての経験から培われた信念となりました。そこで、近在の三村の合併を構想し、間もなく彼が主導して樋島村、高戸村、大道村の三村合併を実現し、彼は新しく誕生した龍ヶ岳村の初代村長に就任します。1954(昭和29)年7月、国久42歳のときでした。

5.視野は広く、実行は速やかに
龍ヶ岳村はその後1959(昭和34)年に龍ヶ岳町と名を変えますが、彼は初代龍ヶ岳町長に就任します。龍ヶ岳村・龍ヶ岳町は天草のなかでは面積的に狭い範囲の自治体でしたが、森国久の視野は常に天草全体に広く開かれていました。つまり常に天草全体のことを考えながら、村政に励みました。その取り組みは熟慮に基づき、実行は速やかなものでした。天草架橋、天草の国立公園編入、地域産業振興、土地利用改革事業、福祉条例の施行等々、両手を何回も指折り数えなければならないくらい、短期間に次々と実現を図ります。

ここでもう一つ大事なことを付け加えなければなりません。森国久は郷土龍ヶ岳町、天草のことだけに尽力した政治家ではありませんでした。地区のためだけに働くのであれば、それがやがては選挙の票に結びつくと考えれば、それはある意味で「常識」であり、並の政治家にとどまります。彼はそうではありませんでした。彼は県外で次の二つの重要な任務を担っていました。

一つ目の任務ですが、1953(昭和28)年7月以来、全国離島振興協議会という全国組織の副委員長に選ばれ、再選を重ねてその後10年間、その職にありました。その間、全国の離島の実情を視察しながら、離島振興策を理事仲間と考え、国の政策に反映させようと努力しました。

また二つ目の任務として、1955(昭和30)年1月からおよそ7年半のあいだ政府設置の離島振興対策審議会委員として全国の離島振興のために尽力しました。この審議会が特に離島予算の安定的確保のための制度化(離島予算の一本化)について非常に重要な審議を継続していた頃、膠着状態の議論を前向きに進める委員間のチームプレーに大きく貢献しました。この時の働きの成果が、全国の離島振興に貢献するのはもちろんのこと、その後の天草架橋の推進にも活かされてくるのです。詳細については別項目を立てて随時公開していく予定です。

6.全「天草市」の構想
彼は天草郡町村会長に選ばれ、全天草が一つの自治体として統合される天草市の実現を構想していました。全国の多くの離島がそうであるように天草諸島も、海と複雑な海岸線、それに加えて海岸線に迫る山地・丘陵によって住民の生活圏は分断されがちであり、その「小世界」毎の地域文化が色濃く残っていました。このような天草の地域文化の限界を乗りこえ、天草の住民が一つの旗印の下に多方面で結集し、未来に向かって躍進していくことを森国久は夢見ていたのです。

平成時代以降の町村合併の動きのなか、天草では上天草市、天草市、苓北町という三つの自治体に分かれて町村合併が進んでしまいました。その意味では国久の夢は未だ実現していません。「しっかりスクラムを組めば大きな力が生まれる、選手が一丸となるラグビーの醍醐味のように」。そういう日が来ることを、今も森国久はあの世で夢見ていることでしょう。

7.天草架橋と森国久
天草人ならいつも通ったあの橋、天草五橋ですが、言うまでもなくその橋は一朝一夕にでき上がったものではありません。1954(昭和29)年、五橋の建設が最初に計画にのぼってから、着工決定を経て、ついに1966(昭和41)年9月の完成に至るまで12年の歳月を要しました。

この間、実に多くの人びとが天草架橋の実現に尽力したのです。しかもそれは全住民を巻き込み、まさに天草がスクラムを組んで熱く燃え、熱く闘った12年の歳月であったのです。完成してみると熱が冷め、かつての熱気が忘れ去られるのはある意味でやむを得ません。祭りと同じかもしれません。ただし、祭りと違うのは天草架橋の場合は、熱気が冷めたあと、九州本島との「時間距離」が一挙に短縮され、天草島民の生活が一変したということです。

すでに触れましたように、天草架橋の実現は実に多くの人びとの連係プレーの成果でしたが、言うまでもなく森国久もそのような立役者の一人でした。じつは彼なくしては、天草架橋の実現は実際よりは2,30年も先延ばしになっていたかもしれないくらい重要な働きをしたのです。彼は樋島村村長に就任した翌年の1953(昭和28)年6月、国会議事堂内で開催された全国離島代表者決起大会に自ら乗り込みました。他県からは、天草は離島ではない、と認識されていた状況のなかで彼が、天草全島を離島振興法案の対象指定地域にして欲しい、と訴えたのが出発点でした。それ以来彼は天草架橋のために身を粉にして奮闘し続けました。

この決起大会への乗り込みが、どんなに大胆な行動であったか、想像してみて下さい。日本列島全図を広げてみると、九州の、熊本県の、天草の、さらにその片隅にある樋島は直径1ミリメートルの大きさにさえ描かれていません。まるでケシ粒のような存在です。そのような小さな島の村長が、いきなり国会議事堂内の議員会館の会議室に乗り込み、しかも参集している見知らぬ大勢の会衆を前にしていきなり熱弁をふるったのですから、さぞかし周囲は度肝を抜かれたことでしょう。実に物怖じしない驚くべき行動力です。

「大胆な行動」と書きましたが、その大胆さの背景には、じつは彼自身による周到な情報収集と緻密な判断が準備されていました。彼の大胆さは、そのような準備を整えた上での、背水の陣の大胆さであったのです。

詳細については[全国離島代表者決起大会]をご覧下さい。

8.志なかばの死
けれども森国久は、1936(昭和36)年6月、架橋着工時期について大詰めの交渉を行うために上京する途上倒れ、緊急手術の甲斐なく熊本市内で急死しました。享年48歳。穿孔性胃潰瘍が腹膜炎を引き起こした結果でした。息絶え絶えの病床のなかで「橋はまだか、橋はまだか」、とうわごとを言いつつ息を引き取ったのです。葬儀は二度にわたって行われ、のべ三千人の参列者があったと伝えられています。
彼は天草五橋の人柱となりました。彼の霊は今も五橋のたもとで往来する人や車を見守り続けていることでしょう。

9.森国久の人柄―優しさと熟慮断行、そして実直
森国久は心根の優しい人でした。それは少年期、新聞記者時代、軍隊時代、警察官時代、政治家時代を通して彼のなかに一貫していた人柄です。相手の身になったつもりで、相手の視点からも物事を考えることのできる優れた能力の持ち主でした。彼にまつわるいくつものエピソードがそれをよく物語っています。その姿勢は打算ではなく、共感と熟慮に由来するものでした。その能力が天性のものなのか、人生経験を積み重ねながら磨き上げていった結果なのか、それは未解明です。

このような優しい人柄とは別に、もう一つ顕著な彼の人柄に触れておかなければなりません。熟慮断行の人でもあったということです。熟慮の上で一旦決めたらテコでも動かない、そういう意思の堅固さも備えていました。たとえば国会内で開かれていた審議会の席上でも、議論の流れの「ここぞ」という重要な局面で、彼は間髪入れずに発言し、委員長に採決をとることを求め、議論に決着をつけました。

そのような公的な場でも「正しい」と判断すれば臆せず発言し、行動するというのが彼の人間的魅力の一つでもありました。そしてまた、それであるからこそ相手は、誠意に根ざす彼の説得力ある発言に耳を傾けるのでした。嘘偽りのない境地は善政の基本中の基本の心構えです。嘘偽りのない境地で自分は熟慮に熟慮を重ねている、という自信が彼にはあったのだと思われます。

弁舌、議論には達意の森国久でしたが、ある理事会の席で彼が議論に負けて心の底から、自分の負けを認めて脱帽した相手がいます。その相手とは誰でしょうか。著名な民俗学者、宮本常一です。宮本常一という人は、その師である渋沢敬三と同様、常に深い洞察にもとづいて、全国の離島民の現状と将来を心底案じて具体策を提案できる人物でした。当初はこのような宮本常一のことを森国久はまだよく知らなかったと思われますが、森国久は宮本常一という論争相手の、私心のない説得力のある道理に感応して素直に脱帽したのです。

森国久にはそういう素直さ、実直さも備わっていたのです。本ホームページの別の項でとり上げる「宮本常一―森国久論争」と呼ぶのが、そのときの議論です。この議論は森国久の地域振興の考え方や、天草架橋運動の進め方のうちでも特に一人一円献金運動の発案に大きな影響を及ぼしました。

10.政治家、そして詩人の魂
ここまで森国久のいくつもの側面を、スケッチ風に描いてきました。その上さらに「森国久は詩人であった」、といえば読者は驚かれることでしょう。これは彼について最も知られていなかった一面です。彼は20代の後半、中国の南部(当時は「南支」と呼ばれました)の広東に兵役のために出征し、広東省内を中心に各地での戦闘に参加していました。その間に時間を見つけては兵舎の一室の机の上でアルバムに詩を書きつけていました。その詩が十数編のこされているのが2016年の9月頃に見つかりました(詩の内容は本ホームページの別の項で順次公開していく予定です)。

政治家と詩、これほど結びつきにくいものはないでしょう。しかし、森国久の場合、人生の時期は違いますが、一つながりの人間のなかにこれら異質の要素が現れていたのです。謎と言えば謎ですが、事実であることは確かなのです。

もしかすると、政治というものが、もし人間という存在の深みで喜怒哀楽に敏感であり、悲惨な状態にある人びと自身が「自らを助ける」ことを助け、人間の尊厳と幸福を達成することを目指すならば、そのとき政治は詩と近づいてくるのかもしれません。それは非常に難しい問題なので、今のところなんとも言えません。今後の解明が待たれるところです。とりあえず本ホームページでは、彼が作った詩を掲載しますので、その時代背景と照らし合わせながらじっくり鑑賞していただければ幸いです。

むすび
天草諸島の有人島のなかでもとりわけ小さな島で生まれ育った森国久ですが、人のために働くという志のとても大きな政治家でした。その思いには邪(よこしま)な一点の陰りもなく、常に公平にして公正な政治実践に努め、故郷である「天草」のために、また全国の離島振興のためにあらん限りの力を尽くしましたが、天草五橋の完成を見る前に、48歳の生涯を閉じました。今から振り返れば短すぎる生涯でしたが、その生き方、その考え方、生きる姿勢は今日でもなお示唆に富んでいます。それは永遠の光を放つ48です。

■■■■■■■■■■■■■■■■  [HT2017]