天草の概要

天草の地勢

熊本県民なら天草という名を知らない人はいませんが、このサイトの読者のなかには、熊本県の九州内のどの辺にあるのかはっきりとしたイメージを描きにくい人もおられるのではないでしょうか。まして天草となると、それが長崎県内なのか熊本県内なのか、尋ねられてもすぐ答えが出ないという方もおられるのではないでしょうか。そこでまず、天草の地勢-土地のありさま-について、その概略を記しておきます。

九州の地図を広げてみますその中央に熊本県があります。その熊本県の南西方向に突き出ている半島が宇土半島です。その先に、國久の故郷である樋島をふくむ天草の島々が連なっています。

[地図参照]

 

宇上半島の先端にあるのが三角西港と呼ばれる港。港といっても今日では数隻の漁船が係留されているだけの港ですが、近年ユネスコの世界遺産の認定を受けて、熊本県外の人びとにも知られるようになった場所です。

天草には比較的大きな島が三つあります。天草の島々のなかで三角西港に最も近い島が大矢野島。島原の乱の一揆軍の最高指導者、天草四郎時貞はそこで生まれたと言い伝えられています。そしてその次に、森國久の故郷である樋島を含む大小の有人島や無人島に囲まれた天草上島があります。そしてさらにその先に、三島のなかでは面積がもっとも広く、人口ももっとも多い天草下島。これら三島のまわりには大小さまざまな形をした島々が散在しています。

これら天草の島々の東側には八代海という内海が広がっています。北の方には長崎県、佐賀県、福岡県、熊本県の四県が接する有明海と呼ばれる内海がゆたかな漁場をかかえ、人問の胃袋のようにどっしりと構えています。有明海は養殖ノリの産地として知られています。

そしてこの奥行きの深い内海と天草諸島の北辺から島原半島の南海岸線にはさまれた海域が島原湾と呼ばれています。天草下島の北辺にある鬼池と対岸の島原半島側の口之津あたりが、島原湾のなかでも最もくびれた早崎瀬戸と呼ばれる海域で、文字通り潮の干満の動きに合わせて、ピーク時には潮の流れが非常に早くなる海域です。

この早崎瀬戸の外側、つまり西方と南南西方向の海域は天草灘と呼ばれています。そしてこの天草灘から西の海域は東シナ海です。黒潮は、鹿児島県の南西海域にならぶトカラ列島の南方で枝分かれし、支流とも言える一方の流れは島々のあいだをぬけて北上し、天草灘の西方から長崎県の五島列島沖をさらに北上して対馬海峡から日本海に入っていきます。

有明海から天草灘への出口、つまりビワの栽培で知られる長崎県の野母崎半島と、天草下島の通詞島付近と苓北町沖とのあいだあたりの海域にはイルカの群れを見ることができ、多くの観光客の目を楽しませています。

天草の島々はどれも複雑に入り組んだ海岸線に縁どられています。この空間は狭いようで広いともいえます。また逆にたくさんの人口を養うには広いようで狭くもあります。これらの島々を縫うように、天草五橋と呼ばれる橋をはじめ、いくつもの橋がかけられ、まるで真珠の首飾りのように美しい島々が互いにつながっています。島々の海岸線をたどってみると、天草諸島の全体は、八代海、島原湾、天草灘、東シナ海という海域で囲まれた多島海としての景観のゆたかさを秘蔵している地域です。

「島嶼社会」天草の景観

近年、九州では「オルレ」と呼ばれる一種のウォ―キングが盛んです。これは単に高齢者が老化やロコモティブ症候群に陥るのを予防するために行うウォ―キングとは違います。韓国の済州島発の新しい「スポーツ」とも言える楽しみです。「オルレ」とは韓国語で「家に帰る細い道」のことですが、いわゆる「道草」を「喰い」つつ家に帰るような楽しみを大自然のなかで味わうスポーツなのです。熊本をはじめ、長崎、佐賀、大分、鹿児島など九州各県にオルレ運動は広がっているようです。熊本には維和島コースと松島コースがあります。

野山を歩きながら、大自然の景観を楽しみ、野の花や野鳥の声、あるいは波の音、川のせせらぎに耳を傾けながら自然を体感する歩き方がオルレなのです。だからコースに認定されていなくても自分のオルレコースをつくることができます。天草はそういうオルレコースの好適地がたくさん秘蔵されています。

たとえば天草の真ん中の島、上島には海抜470メートルの龍ケ岳と、682メートルの倉岳という天草諸島のなかでは比較的高い山があります。ここにはトレッキングコースもあります。訪れた人がそこから眺めると、おもわず感嘆の声を上げてしまいます。

それもそのはずです。そこからは天草諸島をすべて眼下におさめるということはできませんが、とても広い視野のもとに何十キロも彼方の島々や九州本島の街や水平線を眺め渡すことができます。もちろん、変化にとんだリアス式海岸の景観を随所に楽しむことができるはずです。

特に夕暮れにかけて太陽が傾きながら西の水平線に近づいていくころ、西の空は青、朱、茜、紫などの水彩絵の具をつぎからつぎへと淡く流し込んだように、刻々とその相貌を変え、波の穏やかな日には、島々のあいだをうめる海面は黄金色に染まっていきます。訪れた旅人にとっては、それはまさに至福のひとときにちがいありません。それを、好きな音楽でも聴きながら楽しめたらなお素晴らしいでしょう。

天草の歴史と近代化

 けれどもこの美しい島々も、住民がたどった苦難の歴史を秘めています。それはこのような心癒やされる風景からは想像しがたいものでした。江戸時代の幕藩体制下での過酷な年貢の徴収、1600年代前半期におけるキリスト教徒への容赦のない弾圧などは周知のとおりです。

では日本は近代化の道を歩み始めた明治維新後はどうであったのか。ほとんどの離島と同様、天草は、急速に進展した近代日本の産業化から取り残されました。伝統的な漁業や農業に海運業、造船業、炭鉱業が新たに地場の産業として興りましたが、資本が小規模であった炭鉱業はやがて戦後のエネルギー革命の過程で例に漏れず閉山を余儀なくされましたた。木造船を建造する造船業は、大手の経営する鋼鉄船建造の普及とともに衰退しました。トラック輸送の普及の過程で海運業は需要減少に見舞われたのですが、船舶の大型化と航続距離の伸張によってそれをカバーすることができました。しかし、地元でのかつての労働力需要を取り戻すことはできていません。

このように大都市やその周辺地域では、近代化・産業化にともなって経済は発展し、西欧から流入する文化は人びとの好奇心を大いに満たし、その五感をおおいに楽しませました。これに反し、天草のような離島は、多くの農山漁村と同様、否それ以上に大都市やその周辺地域のための、安価な労働力の供給基地としての役割を担わされることになったのです。

天草のような離島は、不均等に発展する日本の産業化の過程においては、貨幣経済に巻き込まれてゆく消費生活の水準の面でも、交通インフラの面においても、相対的に不利な立場におかれつづけました。生活の困窮からすこしでも抜け出そうとしてもがく天草の住民は、時には海外や「外地」に出稼ぎに出かけました。

このような貧困状況から抜け出すには、第二次世界大戦、太平洋戦争の終結を待たねばならなかったのです。とはいえ、天草に暮らす人々自身が切実に離島状況から脱出することを願い、その願いを実行に移さなければ、離島状況からの脱出も離陸も果しえなかったことは明らかです。
森國久は、このような状況に置かれた天草を貧困と停滞から脱出させるためにもっとも懸命に格闘した天草人の一人でした。

天草の人口

天草だけの現象ではないのですが、天草の人口は減少傾向が続いています。天草3市町をあわせると過去45年間に約64,733人の人口が減少しました。詳しくは次の通りです。人口が減少していくプロセスでは、人口の構成が高齢化します。人口が高齢化すると、社会は活力を失っていきます。天草架橋で盛り上がっていた時代、子どもたちの歓声を、至る所で聴くことができました。今はそれが聴けません。この状況を何とか打開していかなければなりません。とりあえず、人口の推移を観察してみましょう。

[pdfファイル -天草の人口の推移]

 

(H.T.2017)