ここに掲載する資料は、森國久が「村長さん」と題して、1955(昭和30) 年に創刊された天草の地域総合雑誌、『天草』の創刊号のために執筆し、掲載されたものです。常に村民に寄り添い、村民と共にあることを常とした國久の、政治に対する信条が伝わる一文です。

■■■■     村長さん
■■■■■■■■■■■■■■■  森 國久

「村長さん」と呼ぶとき、私達は小学校の卒業式に祝辞をのべる、紋付羽織に鼻ヒゲの、いかにものんびりした村長さんの姿を想い浮かべます。また、国民服を着た村長さんの音頭で、万歳、万歳と入隊し出征したことも、米麦の供出が国を挙げての問題になった時、その責任のため死を選んだ村長さんさえいた事実も、忘れることができません。
そして、民主主義の時代が訪れて、聴く方が汗の出るような拙い演説を余儀なくブタねばならぬ村長さんの選挙風景も見られるし、あるいは、台風シーズンともなれば、やれ道路だ、港だと災害復旧のことで、孫ほども若い国や県の役人に油をしぼられ、叱られ、それでも平身低頭している村長さんや、身を削る思いで、町村合併という村始まっていらいの大問題の渦中で村の方向を見いだそうと苦心サンタンしている村長も今日のこととして知っています。
村長さんの生態の変遷は、まことに時代の象徴ともいうべく、時の移り変わりを端的に物語るもので、いわば歴史と歴史をつなぐヒモとも言えましょう。
村長さんは政治を行なう人でありながら、いわゆる政治屋ではなく、また役人のようでありながら、一方的なかつ保身を旨とする役人みたいであってはならない、まことにアイマイモコとした性格をもっています。それはあくまでも村民の具体的な生活に連なっているからで、いわば村民と共にあるからに外なりません。それゆえ、先生と呼ばれる代議士や県議などと違い、村民の生活に直接結びついている事柄、つまり夫婦喧嘩の仲裁から、病人の入院の世話、さては月下氷人等々、よろず村民の哀歓の処理をわずらわしがって避けてはならぬ立場にあるものです。
今や、独立らしい独立をもたぬ悲しい祖国日本、四つの島に九〇〇〇万近くの人口を抱き、しかも年に一〇〇万人も増加していく乏しい日本。貧しい村々、その中で身も心もうち込んでは年に幾人かの村長さんがその死を早めています。あるいは時流に遠い村々では、まだソシャクされていない新思想と、依然として古い伝統の思想との矛盾の中で、村長さんは途方に暮れながらも懸命におのれに忠実であろうとしています。
だが、村長さんという呼び名は相も変わらず親しみと信頼とをもって村民の口の端に上がっているようです。じつは、私も村長族の一人で、自分が村民と共にあることに、ほのぼのとした嬉しさを常に禁じえません。