一人一円献金運動の概要

天草架橋運動のなかで見逃すことができないのが、架橋運動の原動力となった「一人一円献金」運動です。この献金運動は1954(昭和29)年12月の天草架橋期成会準備会において提案され、翌1955(昭和30)年3月頃から天草全域で展開されました。

地域の青年団や婦人会が大活躍したこの運動の結果、1962(昭和37)年の起工時に、当時のお金で1200万円集まっていたそうです。誰がこのアイデアの提唱者であるかということについて諸説あるようですが、森国久が実質的なアイデアの提唱者であることはほぼ間違いありません。

これに関して話は遡りますが、森国久は1954(昭和29)年9月、全国離島振興協議会の理事会の席で、協議会の事務局長でもあり著名な民俗学者でもあった宮本常一と、離島の地域振興の方法をめぐって大論争をしました。これが森国久のアイデアの発端となったのです。宮本常一はそのことを、架橋の起工式の行われた1962(昭和38)年11月、全国離島青年会議の講演のなかで証言しています。

一人一円献金運動の詳細

1950年代に天草には三つの地方紙が存在しました。その一つ「天草民報」は、1954(昭和29)年12月19日付けの紙面は、「一二月一五日 島民一人一円献金、架橋準備会で申し合わせ」という見出しで読者の目を引きました。以下にその記事を引用します。

「天草架橋期成準備会は一五日、教育会館で各界の代表者に報道陣を加えて約三〇人が集まって開催、会長に推戴された桜井知事を迎えて二四日初大会を挙行、同期成会を来年一月一日付で発足させることを申し合わせた。初年度予算は会費と寄附金、二〇余万島民による一人一円献金と在京成功者による多額の寄附金をあてこんでいる。」[写真―天草民報記事]

期成会の会長には桜井三郎熊本県知事、副会長には金子本渡市長、荒木県土木委員長(県議)、森競町村会長(富岡町長)、森慈秀元県公安委員が就任しました。また市町村代表には7人の市町村長が選任され、この時点で森国久初代龍ヶ岳村長も顔を並べています。村長になってまだ半年も経っていません。外に県議会代表二名、市町村議町代表3名も選ばれました。

このような陣容で天草架橋期成会は発足したのですが、期成会役員たちは島内各地で天草架橋実現の必要性を説く趣旨説明会を継続的に開きました。そして青年団や婦人会を通じて懸命に「一人一円献金」への協力を島民にたいして要請したのです。その結果、集まったお金は天草架橋の起工式(1962)―森国久はちょうど一年前になくなっていました―の時点で1,200万円にも達しました。現在の貨幣価値に換算すれば相当な金額です。

一人一円献金運動の意義は、集まったお金の金額もさることながら、その運動が1955(昭和30)年初頭から1962(昭和37)年半ばにいたる7年間に天草全域に広がったということです。それによって架橋実現を目指して天草という地域が気持ちを一つにして力をあわせる架橋運動が持続し、架橋運動のおおきなエネルギーを生み出したことです。

天草のように地理的自然的条件によって相互に寸断された広い地域に住む人びとが、一つの目標の実現に向けて力を合わせた例はほかにはなかなか見つけられません。このように、1950年代から1960年代にかけての天草は、この献金運動の象徴されるように、天草架橋という目標を高くかかげて地域社会が熱く燃えた時代でした。

ところで、「島民一人一円献金」というアイデアはどこから出てきたのでしょうか。諸説あるようですが、このアイデアの源は意外なところにあったのです。期成会の発足によって具体的な第一歩を踏み出した天草架橋運動を、その最初から最後まで見守り続けた著名な民俗学者の宮本常一こそその人です。

山口県の周防大島生まれの彼は「旅するフィールドワーカー」という異称をもち、全国津々浦々を調査フィールドにして、日本民衆の生活環境、生業、文化などに精通している人としてひろく知られています。学者ですが、書斎の人ではなく、歩きまわって各地の人びとと言葉を交わし、生活を観察し、農民に農業経営の助言をする実践家でもありました。

その彼が、1954(昭和29)年の9月、全国離島振興協議会の理事会の席で森国久と地域振興をめぐって「大論争」をしたのです。そのとき宮本は協議会の事務局長、森は副会長でした。

[写真―全国離島振興協議会の理事仲間]

宮本が2年後の1962(昭和37)年11月の離島青年会議で講演した際、「宮本ー森論争」を回想して次のように話していることに注目して下さい。「.....(省略).....天草の森副会長さんが、天草は貧しいから特に多くの国の補助を仰がねばならないといった。私はそのいい方が納得できなかったので二人で大論争したことがある。その時、私は恩師の渋沢敬三先生が南方同胞援護会の会長をしていた関係から、沖縄における戦災校舎の復旧資金を全国小中学校の生徒の寄付にまち、それが動機で、進駐軍が立派な校舎をたてた話をした。森さんはそれから一円献金運動をおこし天草架橋を計画した。その金が起工式の時に一二〇〇万円集まったと聞いた。.....(以下省略).....」(*)

天草架橋の起工式は青年会議が開催されたのと同じ年の7月3日のことですから、前年になくなった森国久は起工式のことはもちろん知りません。とすれば起工式の日に1200万円集まったということを、宮本は森国久以外の誰かからきいたことになります。つまり森国久は生きているあいだに宮本に「一人一円献金でこれだけ集まったぞ。」と自慢した話ではないのです。手柄を自慢する政治家が多いものですが、森国久は自慢を避けていました。宮本もそういう森を評価して見守り続けていたに違いありません。

話をふたたび論争の場面に戻しますが、宮本は南方同胞支援会が取り組んだ募金運動の話を森国久にしたところで、おそらく論争は幕を閉じたと思われます。論争の場面については何も記録は残っていないのですが、想像して描いてみましょう。

宮本より5歳年下の森はまだ血気盛んな頃ですので、最初は反論の構えでいました。しばらく二人の論争がつづいたあとで宮本はついに切り札となる話を始めました。理事会の席は静まりかえりました。森国久もじっと耳を傾けています。自分でも気づかないうちに身を乗り出すように聞き入りました。宮本の話が一区切りついたところで、座はしーんと静まりかえっていました。しばらく誰も発言しません。同席者たちが互いに相手の胸中を探る必要がないと感じていることを、長い沈黙は物語っているかのようでした。森は深い内省の人となっていました。論争のエネルギーはすっかりどこかへ吹っ飛んでいました。「私利私欲を離れた熱意こそが、昨日まで敵であった相手の心をさえ開き、突き動かすことができる。」ということを、森はこのとき心乱れない境地で悟ったのだと思われます。

これで論争の一幕は終わりました。意見を闘わせるという点では森国久は宮本に完全に敗北しました。しかし視点を変えるとそれは決して敗北ではなかったのです。敗北であるどころか、それは彼にとって目から鱗が落ちる、見えない宝ものを得る経験であったに違いありません。それは森国久にとって次の歩みへの非常に重要な一歩であったのです。そのことを宮本は、「森さんはそれから一円献金運動をおこし天草架橋を計画した。」と率直に表現しました。宮本はこれ以降、森の活躍ぶりと天草架橋の成り行きを、慈しみのまなざしで見守り続けるのです。

森国久は9月に得た、目には見えないこの成果を天草に持ち帰りました。11月にかけて天草架橋を地域振興の要の計画として位置づけ、計画に対する熱意を内外に示す上で欠くことのできない一人一円献金運動の案をひそかに練りました。天草架橋期成会に提案する準備はこれで整いました。報道陣に誰が発表したかは、どうでもよいことなのです。「島民一人一円献金」のアイデアは、こうして「宮本―森論争」での森国久の敗北から彼が得たかけがえのない経験、目に見えない宝ものが苗床となって生まれたアイデアなのです。

*『離島振興は進んでいるか/離島青年会議に寄せて』(宮本常一離島論集別巻)、みずのわ出版、2013、147-8頁

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